せら夢公園 自然観察園ブログ

自然観察園、世羅台地の野山と田んぼからの日々のたより

平家と世羅町

世羅町の
大田庄歴史館では、NHK大河ドラマ「平 清盛」にあわせて
『平家領備後国大田庄に遺る平家伝説・伝承展』
と題した企画展示会を開催中です。



平家伝説チラシ

平安時代末期から室町時代にかけて、現在の
世羅町の東部を中心に展開していた庄園
「備後国大田庄」
地元の豪族 橘(たちばな)氏によって開かれた大田庄は、
平安時代末期、平清盛の五男 重衡(しげひら)に寄進されます。さらに
1166年、重衡は大田庄を、さらなる発展のために、後白河法皇に寄進します。
平家滅亡後の1186年、後白河法皇は
源平合戦で亡くなった人たちの魂を供養するために、
紀州の高野山へ寄進されます。

こうした経緯を見ても、
大田庄が平家とつながりの深いことが分かりますが、
大田庄がスゴイのは、
そのことが古文書で確認できる、ということです。

時の権力を握った平家は多数の庄園を支配していたと思われますが、
実際、具体的にどこの庄園を支配していたのか、今では
ほとんど確認できません。

しかし、大田庄については
「高野山文書」(高野山金剛峰寺)を中心とする古文書が残っているのです。

そうした歴史学的研究から、大田庄は
典型的な庄園寄進の経緯と支配・権利の構造がよく確認できる場所として、
全国的に有名なのです。
実際、県外出身の私は、恥ずかしい話
世羅町の名前は知らなかったのですが、
備後国大田庄と聞いてピンときたくらいです。


文学作品でも、
宮尾登美子 著の「宮尾本 平家物語」では、清盛の四男である
平知盛(たいらのとももり)の次男 知忠(ともただ)についてのところで、
『預けたのは知盛の乳母の夫の橘為範(ためのり)で、最初は
 備後国太田に忍び隠れていたらしい。』
と大田庄が出てきます(史実とは言えないようですが・・・)


少し長くなってしまいましたが、
平家とつながりの深い世羅町の歴史。
この機会にぜひ学んでみてください。



夏草や兵共がゆめの跡 (芭蕉)



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  1. 2012/08/16(木) 19:17:45|
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