せら夢公園 自然観察園ブログ

自然観察園、世羅台地の野山と田んぼからの日々のたより

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

「国内最古の農薬使用」の記事から

少し前になりますが、
中國新聞で興味深い記事がありました。


中國新聞記事

「国内最古の農薬使用」と題した記事。
今日、安定した食糧供給を実現するためには無くてはならない
農薬という技術ですが、その先がけが
中国地方で確認されたのはすごいですね。
農薬の歴史を語る上で重要な新発見だったわけですが、
農薬という技術は今後も、自然環境、水田生態系、
多様な生きものたちにも悪影響を与えないように
進化を遂げていく必要があると思います。

話は変わって、
記事中の“堀尾家”、藩祖の
堀尾吉晴は、大河ドラマ『功名が辻』で
生瀬さんが熱演されてましたね。
また、“赤穴城”は
私も先月、銀山街道の研修会で通った時、眺めてきました。


赤穴瀬戸山城址

かなり立派な城址です。
道の駅からの眺めですが、そこの看板には
「家伝殺虫散」を送ったという
“松田左近”の名前もちゃんと載っていました。


道の駅看板

古くから多くの人々が行き来してきた中国地方。
日々の暮らしの傍らにいくつもの歴史が佇んでいます。



広島ブログ
スポンサーサイト
  1. 2013/04/10(水) 19:15:40|
  2. 歴史
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

ちょっと昔の自然観察園

自然観察園のあったところは、
30年ほど前までは耕作されていた田んぼ、
棚田でした。
今の整備している湿地の位置は、
当時の田んぼの位置とほぼ同じだそうです。
また、貧栄養湿地横のあずま屋のところには
それ以前に家があり、住まわれた方がいたと聞いています。

開園したばかりの時、
その頃を思い起こさせるようなものを見つけていました。


湯のみ

何の変哲もない湯のみ茶碗ですが、
「津久志農業協同組合」
の字が赤くプリントされています。
景品か何かだったのでしょうか。

現在、世羅町の地域は合併して
尾道市農協の管内ですが、その前は
世羅郡農協がありました。
世羅郡農協は発足当時、広域的な郡の農協として
先進的事例であったと聞いています。

津久志農協があったのはそれ以前のこと。
地域の歴史を感じます。

富栄養湿地の横にある手水鉢も
その家にあったという臼を用いています。
樋も改修前のトンボ池にあった
池樋を加工して設置しているものだそうです。


手水鉢

それを知って見るとまた味わいがありますね。

広島ブログ 続きを読む
  1. 2012/11/24(土) 12:38:03|
  2. 歴史
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

平家と世羅町

世羅町の
大田庄歴史館では、NHK大河ドラマ「平 清盛」にあわせて
『平家領備後国大田庄に遺る平家伝説・伝承展』
と題した企画展示会を開催中です。



平家伝説チラシ

平安時代末期から室町時代にかけて、現在の
世羅町の東部を中心に展開していた庄園
「備後国大田庄」
地元の豪族 橘(たちばな)氏によって開かれた大田庄は、
平安時代末期、平清盛の五男 重衡(しげひら)に寄進されます。さらに
1166年、重衡は大田庄を、さらなる発展のために、後白河法皇に寄進します。
平家滅亡後の1186年、後白河法皇は
源平合戦で亡くなった人たちの魂を供養するために、
紀州の高野山へ寄進されます。

こうした経緯を見ても、
大田庄が平家とつながりの深いことが分かりますが、
大田庄がスゴイのは、
そのことが古文書で確認できる、ということです。

時の権力を握った平家は多数の庄園を支配していたと思われますが、
実際、具体的にどこの庄園を支配していたのか、今では
ほとんど確認できません。

しかし、大田庄については
「高野山文書」(高野山金剛峰寺)を中心とする古文書が残っているのです。

そうした歴史学的研究から、大田庄は
典型的な庄園寄進の経緯と支配・権利の構造がよく確認できる場所として、
全国的に有名なのです。
実際、県外出身の私は、恥ずかしい話
世羅町の名前は知らなかったのですが、
備後国大田庄と聞いてピンときたくらいです。


文学作品でも、
宮尾登美子 著の「宮尾本 平家物語」では、清盛の四男である
平知盛(たいらのとももり)の次男 知忠(ともただ)についてのところで、
『預けたのは知盛の乳母の夫の橘為範(ためのり)で、最初は
 備後国太田に忍び隠れていたらしい。』
と大田庄が出てきます(史実とは言えないようですが・・・)


少し長くなってしまいましたが、
平家とつながりの深い世羅町の歴史。
この機会にぜひ学んでみてください。



夏草や兵共がゆめの跡 (芭蕉)



広島ブログ
  1. 2012/08/16(木) 19:17:45|
  2. 歴史
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

カナクロ谷製鉄遺跡

世羅町の広報誌「広報せら」
2月号の裏表紙にはコウヤボウキの写真を掲載して頂きました。

その下の記事、
わがまちの文化財シリーズ、今月は
「カナクロ谷製鉄遺跡」の紹介です。


カナクロ谷遺跡記事

せら夢公園のある大字「黒渕(くろぶち)」の遺跡。
世羅台地は古くから製鉄など、
産業の盛んな地域だったことがうかがえます。
中世は「備後国 大田庄」で知られた米どころ。
鉄がなければ、鍬や鎌など、農具が作れませんから、
生産性も上がらない。
田んぼと鉄はセットなんですね。

製鉄には、すごい熱量が必要ですから、
炭や多くの木材資源が、周りの山々から調達されたはずです。
よく手が入り、明るくなった山は、
アカマツの生える山になってきます。
マツタケが生えてくる環境ですよね。

今注目されている“里山”には、
こうした1000年以上の歴史が背景にあるのです。



広島ブログ
  1. 2012/02/22(水) 09:25:23|
  2. 歴史
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

黒川遺跡出土銅鐸のなぞ

現在、世羅町大田庄歴史館で開催中の
黒川遺跡出土銅鐸とその時代展」について、
農業新聞に記事が載りましたので、ご紹介します。


農業新聞記事黒川遺跡出土銅鐸

実はこの銅鐸、後面の半分ほどが、切り取られています。
後に鏡台が置かれているのは、それをよく見えるようにするため。
現代の金切りバサミでも切るなんて難しい銅鐸。
ちょっとやそっとじゃ壊れない銅鐸の一部を、どうやって切り取ったのか?
なんの目的があったのか?

そして、銅鐸最大の謎は、なぜ銅鐸は埋められていたのか?
弥生時代の当時も銅は貴重な資源だったはず。
それを惜しげもなく埋められるほど、銅鐸は神聖なものだったのでしょうか?

当時の世羅台地、人々の生活にも想い馳せます。

謎とロマンあふれるこの銅鐸、ぜひご一見いかがでしょうか。



広島ブログ
  1. 2011/02/26(土) 17:49:10|
  2. 歴史
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。